ものの持ち方

   一

 過日私は越中の富山や福光に旅をして、至るところで河井や浜田の焼物の

愛好者がいるのに出会った。而もどの家を訪ねても、皆活々とその焼物を使っ

ているので、何かしら親しさを覚えた。考えるとその持ち方に心を惹くもの

があったのである。その折ほど二人の品物が美しく見えたことはなかった。

併しよく見直すと何も一流の作品ばかりが集まっているわけではない。寧ろ

ごく普通のものが多いくらいであった。ところがそれが皆大変美しく光って

見えるのである。考えるとすっかり生活に取入れられて、遠慮なく気安く使

われていたからなのではあるまいか。

 之でもう少し使い古したら、きっと大した味になるものがあろう。あるも

のは一流品になってくるに違いない。このことに私は一入感興を覚えた。と

もかく工芸品は使われると活々してくる。又よく使われている時ほどそれが

美しく見えることはない。又使い慣らすと際立って美しさが増してくる。だ

からまっさらの時、そう味など無くとも、気にかける要はないように思う。

筋の通った正しい品なら、どれでも活かすことが出来る筈である。

 所が買い手は必ずしも用い手ではない。使うために買うのではなく、只見

るために買う人の方が寧ろ多い。河井や浜田の焼物の買い手にも、実はそう

いう人の方が多いかと思われる。値が高いから使いきれないという人もある

が、併し使いたい心が強ければ、そんな理窟は出なかろう。大体見ることの

好きな人は目利きとも云える。だから味のよい品を抜き出すのに熱心である。

見た上で形が立派であったり、釉具合がよかったり、色が美しかったりする

と、それを一流品として選ぶ。実際に見て美しいのであるから、間違いはな

さそうなものだが、ここで考えてよい問題が色々あろう。

 出来たての時に一流の品が、果たしていつまでも一流であろうか。始めか

ら味が充分なものと、使って後に充分に現れるものと、何れが美しいであろ

うか。始めは二流品と思えても、又味わいに乏しいと思えても、用いると見

違えるほど甦ってくるものがあろう。又用い方で一段と輝きを見せることが

あろう。持ち手は謂わば育ての親で、用い方一つで美しさが増してゆく。こ

こで二流品は用いる者に創作の余地を与えてくれるとも云える。一流品は寧

ろその楽しみを許してくれない。

 一般に見る人は眺めるのによい品を選ぶから、用いることを二の次にする。

多くは箱を作らせて、之に箱書を頼んで、大事に仕舞っておく。中にはめっ

たに他人に見せぬ人すらある。そうまでして大事がることも作者にとって有

難いことではあるが、果たしてそういう買い手が一番の買い手であろうか。

もっと臆せずに不断の生活に活かしてくれる人の方が、本当の知己ではない

のであろうか。

 私はごくえりぬきのものだけより集めない人を知っている。目利きだから

その蒐集は悪かろう筈はないが、実際には見て窮屈な感じを与える。粒揃い

であるが、却って隙間がないせいか、くつろぎがない。見せて貰う方でも何

か心構えがないと、いけないような感じさえする。何だか心おきなくその美

しさに親しむことが出来ず、遠いものを見るような気持ちである。持ち方も

一々箱から丁寧に出したり入れたりされるので、客の方は気が楽でない。そ

のためか案外その選択に固い感じを受ける。持ち方にどこか自由さが欠けて

いるためであろう。それ故ごく佳いものだけを選ぶというような持ち方が、

一方に大きな抜目があるのを感じないわけにゆかない。結局一番よい持ち手

とは云えないのではあるまいか。

 私は又ある蒐集家で抹茶碗だけより買わない人のあることを聞いている。

百個集める念願だそうで、数ある中には非常によい品が見出せるに違いない。

それにこの人も度重なる経験で、どんな茶碗が美しいかを上手に心得て了っ

たと思える。だからその蒐集は単に数だけのものではなく、質も中々よいの

だと思える。

 併し私はそういう蒐集家の態度を余り好かない。作者への本当の信奉者な

のかが疑われてならぬ。又作者への真の理解者であるかをも怪しまざるを得

ない。もともと抹茶碗だけより集めないというような選び方に、どこか素直

でないところが見える。それは抹茶碗への興味であって、作品に対する理解

とは違う。既に「茶」に囚えられた態度である。平たく云へば片寄った見方

で、本筋の買い方ではない。誰よりも沢山抹茶碗を集めるということに心が

惹かれていては、既に末に走ったものと云えよう。私の考えでは茶碗という

ようなことにのみこだはらず、自分の生活を豊かにするために、日々の実用

品を購ってくれる人の方が、作者の知己だと思える。

 ここで改めて私は二流品のよさということを考えたいのである。言葉はや

や不穏当かも知れぬが、その二流品の方に、あたり前のよさというものがあ

りはしないか。尋常で余所行でない気安いよさがありはしまいか。寧ろそう

いうものの方が、生活にもっと親しさを与えはしまいか。少なくとも毎日の

友達としては、その方が更によくはないか。そうして使っている間に、段々

美しさが増してくる。有難いことに用い手までが美しさの生みの親になる。

所が始めから、味のある隙のない一流品は、却って使いにくく、使うと味を

痛める怖れさえある。結局大事に仕舞っておくことになって了う。物の身と

なってみれば、之で嬉しいであろうか。

 一般には展覧会などで佳い品を選び出す人は優れた買い手だとされる。そ

うに違いない。併しぎりぎりのものより選ばないというような批判家や鑑賞

家が、作者への一番の理解者かというと、必ずしもそうではないと私には思

われる。そういう眼の人の選択も、もとより尊敬されてよいが、それとは別

に作者を批判せずに、一筋に信じ入る人達がある。味があるとかないとか、

出来が良いとか悪いとか、そういうことをさまで気にかけず、作者の仕事を

全幅的に信じる人達がある。かかる人達には疑いがないから、ものの取捨に

そう拘泥しない。一方は見識の人で一方は信者である。

 私は作者が立派な作者である場合は、信者の態度の方に何かしら好感を覚

える。否、その方にもっと深い理解が潜むのを感じる。見識家の方はいつも

第三者の立場で善し悪しを云々するから、作家や品物と離れている位置に立

つ。而も作家より一段上に立って眺めているのだという気配さえ見える。と

ころが信者の方はその関係がもっと密接で一体で、その理解の中には少しも

夾雑物が入ってこない。知識的理解の場合は案外底が知れているものだが、

信仰的理解の方は底がない。

 自分の考えでは、例えば宗教の場合、坊さんや神学者だけでは駄目で、信

者があって教団がよく守られてゆくように、美の世界だとて批判家だけでは

育ってゆかない。信者の存在がどんなに大きな役割を果たすかを考えねばな

らない。かかる信者にはいつも悦びと感謝とが溢れているのである。見識家

の方はそんな謙虚なところはなく、寧ろ彼を理解しているのは自分だという

ような自慢がある。又は自分の選んだものより優れた品はないのだという自

信がある。そういう人の理解にも、もとより尊敬すべき点はあるが、併し感

謝に充ちて無条件に信じ入る信者達の謙遜な態度の方に、一入の含みがある

ように思われる。知識的には説明出来ずとも、或る種の徹した理解が握られ

ているとも云える。それにもっと素直な理解だと云ってよかろう。作者の身

になっても、そういう信者の方に余計頭が下がり、身の引き締まる想いがす

るであろう。木喰上人の歌に次のようなのがある。

  木喰を尊い人と訪ねくる

     訪ぬる人は尚も尊き

 この歌には様々な真理が含まれているように思われる。正直にいうと、引

合に出しては失礼だが、私は一燈園の西田天香氏にはいつもどこかに嘘があ

ると思うがその一燈園を信じ切って入って行く人々には心を打たれることが

多い。この場合少なくとも批判的な私よりも信者の方に、もっと功徳がある

に違いない。たとえ私の批判の方が正当でも。


   二

 ものの持ち方に、或は用い方に三つの階梯があると思われる。

 第一は、ものの良し悪しを知らないため、醜いものまで用いて了う。つま

り選択をしないし、又それが出来ないのである。

 第二は、ものの良し悪しを知っているので、美しいものを用いようとする。

だからいつも取捨を行うことを忘れない。

 第三は、ものの良し悪しを問わないままで、自から美しいものが用いられ

る。ここでは既に分別も要がなくなっているのである。

 読者はこの三つの場合のどれに今自分が居るかを省みてくれるであろうか。

解り易くするために、多少の説明を加えてゆこう。

 第一の場合はまだ求める心が兆さないのである。美しいものにも醜いもの

にも無頓着である。一つにはそのけじめを見る眼がないからである。それ故

美しいものに冷淡であったり、又醜いものを佳いものと思い込んだりする。

良し悪しを見分けるのに定まった目標がないのであるから、用いるものは出

鱈目になる。

 こういう段階は一番低いものであるが、併し残念にも大方の人はこの位置

に止まっているし、而もそれを低いとは中々反省してくれない。

 生まれつきこういうことに縁の薄い人もあろうが、併し私の考えでは多く

の者が宿命的にそうなのでは決してない。何かの機縁に触れると、分別が甦っ

てきて、選択を始めるようになろう。只近代の社会事情のもとではそういう

機縁に廻り会うことが少くなって来たのである。醜いものが余りにも沢山生

産されたり、生活がひどく貧窮したり、又教育がこの問題を等閑にしたりす

るがためだと思われる。何れにしても早くこの階梯から脱れ得ぬと、人々の

生活は美しさと結ばれてこない。このままだと醜いものが益々蔓延して了う。

 併し凡ての人に取捨の力を与えようとするのは、無理だと思われる。いく

ら人倫の道が長い間説かれていても、幾許かの不道徳な者が現れるのは、ど

うしても避けることが出来ぬ。同じように醜いものを醜いと感じない者は、

いつの時代だとて消え去ることはあるまい。只その比率を出来るだけ少なく

止めるようにするのが、人間の務めだと思われる。この点で将来教育が背負

うべき任務は大きい。或は又人々に分別がなくとも、そのままで誤ったもの

を持ち得ないような事情にすればよい。このことに就いては尚後で記したい。

 第二の段階に来ると、美しいものを求める人間の心に出逢う。何かの目標

を立てて、美しいものと然らざるものとを区別し始める。そうして美しいも

のを選び、醜いものを棄てようとする。之は人間の心が生い立つにつれて、

いつか到達する境地である。先ず疑いに始まり、思案を重ね、分別を起こし、

かくして選択を加え、遂に取捨を行う。之で美しいものが理解せられ、守護

せられ、奨励される。こういう人々が殖えるにつれ、どんなに世の中が美し

くせられ、潤いを得るか分からぬ。假りに凡ての人々がこの境地まで進むと

すると、人間の生活は殆ど一変して了うであろう。

 併しこの階梯に入れば、それでもうよいかというと、中々そうではない。

考えねばならぬ大きな問題が少なくとも二つある。ものの美醜を選択すると

云っても、何を標準にするのか。目標には自から深浅があり正邪があろう。

時によっては美しさを浅く解したり又は間違って受取ったりするであろう。

それ故標準の高さで美の性質が決定される。何が最も正しい標的なのか。こ

の問題はそう簡単ではない。誰でも一様に深い標準を持ち得るわけではない

し、取捨があるとしても何を取り何を捨てるかで右と左とに分かれて了う。

よい意志があったとて、必ずしも正しい結果を得ることが出来ない。背後に

よい直観が働かぬと、折角の選択も方向を誤るであろう。然るに知識は養え

ても、誰にも直観が平等に恵まれているわけではない。このために何が美し

いかの論争がはてしなく起こって来る。何を選択しどう選択すべきか。それ

自身が大きな問題を孕もう。尤もかかる論争が活発に行われているのは、ま

だ希望がある証拠ともなろう。只このために人間は紆余曲折の歩みを続けね

ばならないのである。

 併しこの種の難関のみではない。美醜を分別するその意識自身の問題があ

る。第二の階梯は要するに意識の世界である。美醜を意識的に判別しようと

するのである。無意識である第一の段階より更に進んだ状態であるのは言う

を俟たない。併し美を意識することが果たして美への最も深い理解であろう

か。美醜を分別するということは、対立の世界を設けることではないか。必

要あって分別の働きが加わるのではあるが、一々美を意識せねばならぬ状態

は最後のものであろうか。かかる分別は畢竟一度は通らねばならぬ道程だと

いうまでに過ぎなくはないか。いつまでも美醜の二を判かなばならぬ立場は、

それ自身不完全なることを意味するであろう。何が美しく何が醜いかを知っ

ているのはよいが、そこに止まるなら、まだ無碍だとは云えぬ。醜に陥って

はいかぬが、同時に美に囚えられるのも亦不自由である。分別に止まるなら

相対の域を出ることが出来ない。取捨選択があるからこそ、美が守られ尊ば

れはするが、それは同時に醜への断えざる攻撃を意味するであろう。そのた

め畢竟破邪顕正の仕事を出ない。そこにも大きな意義はあるが、帰趣に達し

た状態とは云えぬ。更に一発展がなければならぬ。

 ここで第三の階梯が考えられる。無分別から分別に進んだが、更に分別を

越える所に到らねばならぬ。一々美など意識せずとも、自ずから持つものが

美しくなるようにならねばならぬ。ものの良し悪しなど忘れるままに、それ

で則を乱さないようになってこそよい。こうなれば持つ者は自由である。自

由であって而も過つことがない。

 分別に依るのではなく、自然にどうあっても美しいものが作られ持たれ又

用いられる場合が三つある。それは何れの場合でも醜に対する美ではなく、

謂わば醜のあり得ない境地、従って美醜という分別の不要な世界、又は言葉

を換えて、美しさのみがあるというような至境である。よく宗教で説かれた

「未生」とか「一如」とか「不二」とかいう言葉でのみ、漸く示唆し得る性

質である。ここに到達するのに自力と他力、即ち聖道浄土の二門があるとい

うが、ものの持ち方の第三の階梯に達するにも、是等の道があることが分る。

私はなるべく易しく実例を取り乍ら是等の真理を説こう。前に述べた三つの

場合とは次の如くである。

 第一に考えられる場合は全く他力的な性質に因る。夏の沖縄に行くと誰も

芭蕉布を着る。所が芭蕉布には醜いというものがない。少なくとも今までの

しきたりで作ると、何れも美しく作られて了う。そのことを島の者は別に識

らない。識らないままに自から美しい着物を着て了う。こんな事情に入ると、

美醜の分別など要らなくなる。美醜を対立させて考える必要のない境遇にい

るからである。

 高麗や李朝の焼物の模様を見ると、いやなものは見当たらない。もとより

出来不出来はあるが、不出来の場合でも、この世をきたなくするようなもの

ではない。中には手並の拙い陶工もいるのに、拙いままにどこか美しく描い

てある。それ故醜さの入る余地が見えない。皆達筆なために上手だというな

ら平凡だが、拙くともそれがどこか美しいというのだから、たいしたことだ

と云わねばならぬ。私にはこういう状態こそ理想的な場合の一つだと思われ

る。美醜などを区別しなければならないような厄介な事情とは違う。この世

の人達が美しいものを当り前に作り・持ち・用いて了うように何とか出来ぬ

ものであろうか。実は部分的には今でもこのことが事実として現れはするが、

悲しい哉、種々な社会事情に邪魔されて、段々この幸が不可能になって来た

のである。そのため止むなく分別し取捨することが必要になってくる。

 第二に考えられる場合にも他力的な性質が見える。若しも美しいとされて

いるものを、多くの者が無条件に信じ入るならば、この世はどんなに簡易に

美しさに浸るであろう。知的理解などは持ち出さずして、只素直に受入れる

ことである。批判を後にして、信頼を先にすることである。之で多くの者が

識らないままに美を識って了う。丁度一文不知の者が、そのままで彌陀と暮

らせるのと同じである。之で多くの者は救われるのである。十全の知的能力

を誰にも期待することは出来ぬ。而も分別を働かせて分別に破れぬ者がどれ

だけあろう。若しも分別に関わる要もなく、美しさと一体に暮らせるなら、

大きな恵みだと云えるであろう。なまじ小さな自己の智慧を持ち出すので、

益々迷いが来るのである。宗教の場合と同じように、美の国にも信者がなけ

ればならない。それは易行の道に於いて、多くの者を浄土に導くのである。

 不幸にも今は美醜の差の激しい時代である。それ故、どうあっても指導す

る者があって、何が本当の美であるかを示してくれねばならぬ。その善知識

に導かれて多くの者が正しい信を得るならば、この世はどんなに速やかに美

しくなるであろう。美の世界にもかかる先達があり坊さんがいなければなら

ぬ。そうして彼等を信じる信者がいなければならぬ。之によって信者達は、

自からは識るの要なくして、美と深い結縁に入ることが出来る。之を「安全

の道」と私は呼ぼう。多くの者が美と暮し得ないのは、自己の小さな知に便

るからである。之を「不安の道」と私は云おう。

 ここで第三に信者を導くその善知識達のことが心に浮かぶ。謂わば美の国

の坊さん達である。並々ならぬ内省や修行の人々であるから、多かれ少なか

れ自力の行を経た人達である。僧と云われるからには、解脱の人であり悟入

の人であることを意味する。美の教団にもかかる善知識がいなければならぬ。

彼等はもはや分別に止まっている人達ではない。美醜が未だ分かれない以前

の真理をさえ捕らえ得ているのである。意識に在って意識を越え得た人々で

ある。こうなれば美醜に滞らずして而も自から美の則(のり)に即して了う。

行往座臥ありのままにして而も美と同体である。取捨なくして而も美を乱す

ことがない。恐らく凡ての優れた茶人達は、そういう域に達した人々であろ

う。達し得た者をこそ始めて茶人と呼んでよい。彼等は物に相対しているの

でない。物もなく彼等もない「倶絶」の境地に住むのである。それ故物を持っ

て物に乱れることがない。こうなれば自在であって而も誤謬というものがな

くなってくる。彼等に持たれ用いられる凡てのものは、美しくなって了う。

分別が美しさを選択しているのではない。無分別が過たない分別を自から生

んで了うのである。識らずして充分に美を識る境地である。他力の道にしろ、

自力の道にしろ、ここにものの持ち方の帰趣がある。

 念のためもう一度以上の趣旨をかいつまんで記そう。最初は無知の階梯で

ある。美醜に就いて何事をも知るところがない。それ故醜いものを所持して

も、それを省みようとはしない。時代が沈み、粗悪なものが多く作られるに

つれ、人々の持ち物は愈々ひどくなってきたのである。だが幾許かの人が目

覚めて、美しいものと醜いものとの区別を立てる。そうして美しいものを選

んで醜いものを棄てる。この求めが残るばかりにこの世は醜さにのみは沈ま

ない。だが美醜に分別を加えねばならないのはそれが相対の域に止まること

を語る。美と醜とが相争う故に、分別が必要となるに過ぎない。一度この対

立を越え得たなら、一々意識に待つ要がなくなるであろう。取捨を加えない

ままに、自から誤りを犯すことがない。かくしてそのままで美しさに即して

了う。ここに到り得る道に他力自力の二道があろう。その何れでもよい。こ

の境に入って心と物とが始めて不二になる。美と醜とが未生に入る。吾々の

生活をどうかしてこの域にまで高めたいではないか。


                   (打ち込み人 K.TANT)

 【所載:『工芸』116号 昭和22年3月】
 (出典:新装・柳宗悦選集 第8巻『物と美』春秋社 初版1972年)

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